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東京日日新聞(2)

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昭和10年12月10日【夕刊】p2
綾部を首都に
統治者を僭称する
治維法適用説の根拠はこれ
大本教不敬の確証
大本教の内容に不敬の事実を突き止めた内務省は、検挙に慎重を期するため係りの事務官を左翼専任の永野事務官に変更し、一ケ月前同事務官は京都に急行、京都特高課同地裁検事とともに琵琶湖畔にアヂトを設けて専心大本教関係の文章を精査した結果、いよいよ最小範囲内におゐて大本教を不敬罪によつて絶滅し得る確信を持ち一方大審院と交渉して急に京都検事正の更迭を行つて大本教大検挙陣を編隊したものである、当局が大本教を日本人として許し得ぬ不敬教として弾圧するにゐたつた事実を列挙すると次の通り
一、大本教の根本教義よりして皇道の大本は、大本教にありとしそこに不敬罪以上の日本国民として最も忌むべき国体変革の思想を醸成《ぢやうせい》してゐる、当局が刑法第七十四条の不敬罪以上に死刑若しくは無期懲役に出来る治安維持法で罪にし得るといふ理由はここにある
二、かかる思想よりして出口は自己を日本における真の統治者としてゐる
三、自己の名前を○○といひ、信徒からかかる名あての手紙が数通発見されてゐる
四、信徒の査閲をする場合は○○○と称し、妻の澄子を参謀長としてゐる
五、特選出口王仁三郎○○○として辞令を出してゐる
六、信徒の家に出掛ける場合の行列を○○に擬し前駆後駆を付けてゐる
七、王仁三郎の周囲に近侍(女性)を置き宿所には警備員を置く
八、「国の鎮」と同調子の瑞垣の曲を奏せしめる
九、王仁三郎のことをいはせるのに大○の言葉を使用させる
十、あらゆる機会におゐて皇室を○○してゐる
十一、綾部を首都として高天原はここに再現されるといふ
十二、前駆後駆を付ける場合宮内省通牒と類似の文書形式を用ひてゐる(以上、内務省検閲済み)
検事局が検討開始
大本教の証拠品
大本教第二次大検挙で東京関係は四谷区愛住町を昭和神聖会本部ほか七ケ所を襲撃副統監出口宇知麿氏ほか関係幹部の大検挙と、十数台のトラツクに証拠品を満載押収したが、証拠品のみは、東京地方検事局に保管、思想部戸沢、長谷川、佐野、吉江検事等が一応検討を行つた、重要証拠品を選り出した上近日中に京都地方検事局へ送致することになり九日朝検討を開始した、しかしトラツク十数台分もある証拠品だけに三、四日は検討だけでもかかるものと見られてゐる
昭和10年12月10日 p3
【社説】邪教の跳梁 速かに掃蕩せよ
 今次、大本教が弾圧された直接の原因は不敬事件に絡むものと伝へられてゐる。不敬事件そのものが糾弾さるべきはいふまでもないとして、われらはこの際、当局が進一歩、無数の良民を惑はしてゐる一切の淫祠邪教に対して、徹底的な弾圧と撲滅の鉄槌を下すべき方途を講ぜんことを要望するものである。一見、いまはしい淫祠邪教と解つてゐても、現行取締法規の関する限り、それが具体的に社会の安寧秩序を紊さぬ場合には、取締当局は見す見すこれを放置してゐる。その結果が、全国にわたつて幾百といふ淫祠邪教の跋扈跳梁となつてゐる。文部省が来議会に提出するやに伝へられる宗教団体法案は、この点につゐて相当厳重な取締規定を設けてゐるが、ただ単に淫祠邪教の撲滅といふ見地からだけでも、適正な取締法を出来るだけ早い機会に制定すべきことを勧告する。この目的達成のためには、この際当局の手におゐて、全国の淫祠邪教と目すべきものの内容と活動状態を厳重に調査し、その全貌を白日下に暴露するのも一つの方法である。
 だが、淫祠邪教も、一面、発生の社会的温床がなければ、かくまで浸透し、跳梁し得る訳がない。文教の施設が精神的にもその眼目に副ふ実効を挙げ、他面、善き政治の下に国民大衆の生活が、よどみなき向上発展を期することが出来るならば、いふところの淫祠邪教は地を払つてその影を断つであらう。溺れる者は藁をもつかむ譬へ通り、無数の良民が愚にもつかぬ「教義」に惑はされ、惑はされた良民を踏台にして、貪欲不逞の徒が、まんまと淫祠邪教の企業に驚くべく怖るべき成功を収めつつある一半の責任は、確に為政当局にあるといふことができる。も一つの大きな原因は、その教義と伝統の関する限り、十分大衆の宗教的欲求に副ふに足る既成宗教の大多数が、現実におゐては宗教本来の使命を忘れ、むしろ大衆の軽蔑に値するやうな不始末を演じてゐることである。為政者のなすところに社会不安を一掃する周到懇切の対策なく、既成宗教に大衆の宗教的情操をはぐくむ力がないとすれば、淫祠邪教の跋扈も、現象的には一応やむを得ぬ仕儀ではなかつたか。大本教事件は国民の精神生活に潜在するこの怖るべき結果に対して、貴重なる実物教訓を与へたものである。われらは政府当局が、単にこの事件の結末のみをもつて足れりとせず、広く国民生活の大局から、あらゆる淫祠邪教の掃蕩につゐて、抜本塞源の方策を講ぜんことを切望せざるを得ないのである。
昭和10年12月10日 p15
押収証拠物件約二万点に上る
大本教検挙一段落
【京都発】大本教不敬事件に対する大検挙の手は漸く終りをつげ綾部町の大本教総本部や亀岡町の天恩郷の家宅捜索を行つた判検事一行は九日午後五時卅三分亀岡駅発列車で京都に引揚げたが、綾部の総本部で押収した証拠物件は日本刀約三百口をはじめ合計約二万点に上つてをり、これ等に一々封印を施して処分、その一部たる千余点の問題の書籍、秘密文書類は九日午後五時半三台の自動車に積み込みそれぞれ護衛の警官付きで京都検事局に押送《あふそう》した
また検束された綾部の総本部は奉仕者男女六十余名、亀岡天恩郷の受教者男女百余名の処置につゐては九日午後杭迫特高課長を中心に慎重協議の結果、検束者はこの際信仰の転向を勧説《くわんぜい》し釈放すると同時に解散を命じ、大本教側から旅費を支出せしめて一時も早く郷里に帰らしめることに決定、旅費支出につゐてはすでに大本教側も内諾してゐる模様である
出口宇知麿等
松原署に留置
【京都発】東京で検挙された出口宇知麿外六名は身柄引取りに赴ゐた京都府刑事課片岡警部補ほか九名の刑事に付添はれ九日午後九時九分大津駅着九時卅五分松原署に留置された
昭和10年12月11日【夕刊】p2
これでも”生神様”
ただれた私生活
留置中の王仁の健康診断に係官もあきれ返る
八日午前松江より護送された大本教主出口王仁三郎は爾来京都府中立売署保護室に留置されてゐるが朝夕うら若き近侍に囲まれながら王侯の如き豪奢な生活を送つた身体は保温設備も十分でない一警察署の保護室に留置されてすつかり健康を害し、時々乳児の如く不潔な行為を繰返すので同署幹部も非常に心配し九日午後付近の医師を呼んで王仁三郎の健康診断をして見ると生神様王仁三郎は意外にも性病を患つてゐることが明瞭となり、係官は今更のやうに王仁三郎の日頃のただれた生活にあきれてゐる、王仁三郎の居間にあてられた綾部の奥まつた一室はさながら幕府末期の千代田城の奥殿を見るやうで、何気なく置かれた調度品の一端にも爛熟淫欲の限りを盡した王仁の生活が物語られてゐるとのことである、内務当局は大本教絶滅のためあらゆる法規を動員して大本教罪状記を編録してゐるが、かうした王仁の生活の一端によつても何も知らぬ信徒が王仁を迷信したことを恥ぢて早く正業に帰るやう希望してゐる、したがつて大本教幹部四十三名の検挙だけで一段落としこれ以上検挙人員を拡大せぬ方針を京都に通知した
『醒めよ信徒』
警保当局談
生神様といはれた王仁の身体がかくの如く汚れたものであることは中立売署の健康診断によつても明瞭である、或は綾部の王仁の居室を見ただけでも王仁がいかにインチキ的存在であるかはハツキリしてゐるのだから信徒は迷信であつたことに一日も早く目醒め真の日本国民に立戻るやう希望して止まぬ、このことを広く新聞紙を通じて大本教四十万の信徒に表明する次第である
俎上の大本教(2)
代々、女ばかり生れる出口家
男は育たぬとは果たして真か
血縁関係を洗ふ
大本運動の中心を亀岡に移したのは大正十四年で、第一次大検挙のほとぼりがまだ醒めやらぬころであつた、総本部の綾部は大本のいはゆる「聖なる道場」として祭儀の中心地とし、亀岡を教の中心地とし旧亀山城址に天恩郷と命名して大本大道場を建設したり、文書宣伝のために印刷所「天声社」を設備し、事務所や居宅などいろいろの建物を建て「大本王国」を建設した、さて王仁三郎が本部事務所をなぜ亀岡に移したか? 大本の人達は王仁三郎の郷里が南桑田郡曽我部村穴太であるから、一には郷土に近いところ、二には亀岡が京阪に近くて綾部よりは交通や宣伝に利便であり、信者の参拝にも都合がよいといふのだが、亀山城址はその昔「敵は本能寺にあり」と叫んで叛旗を翻し、老の坂を越えて京洛に攻め寄せ、本能寺で織田信長を仆した明智光秀の居城であつたところ、ここに光照殿、高天閣、月宮殿、明光殿、更生館などと王者生活を思はせるような名称を冠し王仁三郎は自分のことを「○師さま」と呼ばせ、正体の知れぬ女性をたくさん侍らせて豪奢な生活を続け「三千世界の大洗濯大掃除」云々と、いはゆる教祖のお筆先きを説ゐたのだ
そして、大正十年検挙されるや、爾来、沈黙を守つてゐたが、両三年この方、文書宣伝を開始し、近頃は「大本は路傍の草花のやうなもの、踏まれ、蹴られながらも花を咲かせ、実を結ぶのだ」と図々しく大検挙を逆手に利用して羽をのばしてゐた
王仁三郎と日出麿とは主として亀岡天恩郷にあり、綾部の総本部は二代教祖の澄(王仁三郎の妻)三代教祖直日(日出麿の妻)とが住居してゐて、王仁三郎や日出麿が澄や直日と夫婦生活を営む日は月のうちに数へるくらゐ、大本の信者達はこの別居生活をさして「教祖も教主も神がかりであるから、なんらのこだはりもないのでせう、大本は代々出口家の女性が世を継ぐ、不思議なことは出口家には女ばかり生れる、たまに男が生れても夭死する、これが出口家の変つたところ」と衆愚を迷はすやうな言辞を弄んでゐた、大本信者が信じてゐるやうに果して出口家には女ばかり生れて、男は生れても育たぬのであらうか……古いことは容易でないが二代教祖澄とその子の三大教祖直日並に梅野、八重野、尚江、住江ら姉妹の身元を調べることは最近のことであるから比較的容易であり、こんどの検挙で、はからずも三代教祖直日姉妹に乱れた血が流れてゐて、大本が宣伝するやうに出口家は女ばかりが生れるものでなく、そこにからくりがあることを探知したので、この血縁にも疑ひを注ぎ全国の警察網を利用して、いま出口一統の血つづきを洗立ててゐる
昭和10年12月12日【夕刊】p2
わが建国創業に不逞極まる批判
僭越な大本教教歌
大本教事件につゐては京都地方裁判所検事局から大審院光行検事総長あてにその後の検索状況と取調べの経過が逐次報告されて来てゐるが、大不敬と認める根本は出口王仁三郎等同教の幹部が唱へる「世の建直し」なるものは、わが国建国創業の大理想を批判し、共産主義者のいはゆる国体変革の思想とその軌をおなじうするやうなもので最も悪むべき不逞不敬の思想であることが立証された、最近はこれを同教の行事に、諸制度に具現し、既報の如く教主を○○○○○し、行列を○○と称し、しかも同教の教歌なるものは国家『君が代』の節々にただ『ましまし』の四字を加へて公然信者をしてこれを唱和せしめるなど、言語道断の事実が続々と現れて来た、吉益大阪控訴院検事長は大検挙着手の前日すなわち去る七日長官会同で上京し検挙後の状況を詳知してゐないので今明日退京徳永京都地方検事正から詳細な報告を受け来る十六日あらためて上京、大審院におゐて首脳部会議を開き、つぶさに報告し如何なる罪名をもつて処断するかを協議することとなつてゐる
俎上の大本教(3)
信者さへ迷はす性格の七変化
常人の『王仁』が装ふ超常人
奉仕者は謎の生活
『皇道大本』の字義につゐて大本信者は口を揃へて皇室中心主義のシンボルであるといふがこの『皇道大本』の文字は大正十年の第一次不敬事件にひつかかつて爾来大本では『皇道』の文字を冠することを慎んでゐたがその後各地に皇室中心主義を強調する諸運動が起つたので第一次検挙の時のことを忘れて再び『皇道大本』ととなへるやうになつた、そしてかれ等は「皇室中心主義によつて大家族的精神運動を行ふのだから皇道大本と称へても何等差支へはない」と大それた口を利ゐてゐるが総統王仁三郎の、いや幹部連の考へ方は怪しい、現にかれ等の言動には伝へられるごとく数々の不敬事件があり、王仁三郎には僭上《せんじやう》の行動がある、要するにかれ等が皇道主義と称するのはいはゆる口頭禅、鬼の念仏でしかない

カンカンの信者でさへ「○師さま(王仁三郎のこと)は本当に賢いのか馬鹿なのかわかりません」といふくらゐ超常識的性格の持主で、狂人じみたところもあるが今村博士の鑑定によると馬鹿でもなければ狂人でもなく、立派に常人としての精神をもつてゐる、それどころかたまたま大本に好意を持たぬ人達から「大本は何を教へるところです」と問はれると言下に「大博奕をうつところさ」と平気で放言して相手を呑んでしまふあたり、禅僧の風格さへある

王仁三郎は絵筆を持てば南画もどきの水墨が立ちどころになり、歌を詠めば一時間に百五十首といふ大量生産振り、エスペラント語辞典を著作したり、七福神に扮して写真を撮つたり、最近映画宣伝部をこしらへてその第一回作品『大本の七福神』には自ら主役を買つて出て、得意の七福神に扮してあざやかな一人七役を演じてもゐる

現在、綾部の大本総本部と亀岡の天恩郷にゐるいはゆる奉仕者は三百五十余名で、奉仕者になれば一ケ月三円の手当が支給される、奉仕者は大部分全国各地から集つた大本信者であるが、月に三円でどうして生活してゐるのか外部のものには解けぬ謎である
昭和10年12月13日【夕刊】p2
俎上の大本教(4)
怪奇の”言霊学”
デツチあげた王仁の霊界物語
かくして奈落の底へ
大本教がエス語の普及に力を入れるに至つたのは第一次不敬事件でわが国民に容れられなくなつた苦しまぎれに海外へ延びる一つの手段であつた「エス語独習の手引」を出したり人類愛善のエス語宣伝文をバラ撒ゐたり、大正十五年一月にはフランスで「国際大本」と題するエスペラントの新聞を発刊し、ジユネーヴで開かれた万国エスペラント大会には宣伝使西村光月を特派して内外に活躍したものだ

王仁三郎の著書に「霊界物語」といふのがある、この「霊界物語」は大本の根本宝典で、教祖お直婆さんの「お筆先」を「経典」とし「霊界物語」を「緯典」だと吹聴してわいわいはやしたててゐるが、この物語たるや王仁三郎が大正十年、責付出所後口に出まかせを筆記させたもので四六版一巻約四百ページ、それが積り積つて驚くなかれ全部で百廿巻、八犬伝も大菩薩峠もおよぶところではない、しかもその内容がまた頗る振つてゐる、何でも王仁三郎が郷里の丹後高熊山で一週間の修行中、王仁三郎の魂がふらふらし、霊界を逍遥して見聞きしたといふいはゆる霊界の種々相ださうだ、所詮は夢遊病者の手記のやうなものを捏つちあげて作つた宝典?である

元来王仁三郎は言霊学が大自慢でややともすると言霊学をかつぎ出すが、その言霊学たるや正しい意味のそれではなく、王仁三郎が自分の都合のよいやう勝手に描ゐた空中楼閣的のそれで、自慢の「霊界物語」にも随所にこの似而非《えせ》言霊学が天狗の鼻をつき出してゐる

中津国の中心に丹波の国がある、丹波の国を上古は田庭国または丹波の国と称へたが世界の中心を人物に縮写する時は、下津岩根、すなはち臍下丹田なる身体の中府であり、高天原である、また丹後といふ声体には赤白、水火、日月、陽陰、幽顕などの意義があり、丹波の丹は日と一すなはち火または霊ならびに神といふ意義で、波とは水またはナミの意、ナは火水を結びし義、ミは水充つるの義である、田庭国の田は口の中に十を現はし、口は固まること、十はナと同じく火水の結びし真象である、庭はニハでこの言霊はやはり日月、火水、天地、陽陰、幽顕の意義である、ゆゑにこの丹波国の言霊は陰陽二神の顕現した国霊である、その中心に綾部大本がある、大本を中心として十里四方の面積が延喜式の祝詞にある下津岩根であり、神々の集ひ給ひて神律を議定し、至善至美の神政を行はせ給ふべき霊地で、いはゆる四方の国中であるといふのである

これが王仁三郎のいふ言霊学の本筋である、何んとややこしいものではないか……かうした神話もどきの出鱈目を綴つた「霊界物語」を、彼等一党は教祖お直婆さんの「お筆先」の真解釈書といつてゐる

王仁三郎は最近自己の予言が容易に的中しないところから常に何とかならぬかの焦燥があり、教団経営にも多少の無理があつたことは岡目にも見えたところ、この無理が王仁一党して奈落に突き落す結果になつたと観察しても恐らく誤りはなからう
昭和10年12月16日 p11
浜松、豊橋から六名検挙
大本教関係で
【京都発】大本教検挙の証拠品中から浜松、豊橋両大本教支部の役員は本部の枢機に参与してゐたことがわかつたので京都府特高課員は十三日夜両署に出張し浜松市元日町八六大本教支部長武田仙造(40)及び支部の幹部藤原章■(43)竹原弘(42)井口太郎吉(46)吉田角(40)豊橋支部から富江徳太郎(42)を検挙して十五日朝帰洛した
昭和10年12月21日【夕刊】p2
大本教関東別院に手入れ
【横浜発】神奈川県特高課では廿日午前七時突然所轄山手署を動員し特高係り多数が自動車五台に分乗し横浜市中区滝ノ上六大本教関東別院を襲つて厳重な家宅捜査を行ひ同別院で印刷した印刷物及び関係書籍書類その他を押収した
プリンタ用画面
作成:2009-3-27 0:25:15   更新:2015-6-20 1:00:25   閲覧数:3396
王仁三郎ドット・ジェイピー