王仁三郎ドット・ジェイピー
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三日目(21日、日曜日) - 1


午前6:30 目が覚める

 今日は7時半集合です。
 目覚ましを30分前の7時にかけておいたんですが、6時半に目が覚めてしまいました。
 カーテンの透き間から漏れてくる陽射しがとても暑いです。
 熱い一日になりそうな予感…。

 本日のメインイベントは台湾別院跡の捜索です。その後は各自、自由行動となります。
 迅速に捜索活動を終えるために、事前にできる限りの調査を行ってきました。
 まだ集合時間には早いので、バインダーに綴じたたくさんの資料に何度も目を通し、地図や情報を頭にしっかりインプットしました。(参加者に渡した簡単な資料→

 台湾別院は台北市郊外の草山(そうざん)という場所に建設されました。
 地図で見ると、現在は陽明山(ようめいざん)と呼ばれ、国立公園が置かれています。(陽明山国家公園Googleマップ
 台北市の中心部から北へ10キロほど離れた高地にあります。
 温泉が湧き出ており、保養地的な存在のようです。たとえていうなら、東京に対する熱海みたいなものでしょうか。
 ここに造られた台湾別院は通称・草山別院とも呼ばれ、昭和6年(1931)1月3日、王仁三郎臨席のもとで開院式が行われました。
 王仁三郎は4回、台湾に巡教に行っていますが、これは2回目の巡教のときです。(台湾 - オニド
 2回目〜4回目は、台北での宿泊は台湾別院ですが、1回目のときは草山の「巴旅館」に泊まっています。また4回目の巡教のときは台湾別院に滞在して霊界物語の校正を行っています※1



 台湾別院に関する資料はさほど多くはありません。
 まとまった資料としては、愛善苑が1990(平成2年)10月に台湾現地研修会を行ったときに編纂した内部向けの資料があるだけです。
 しかしこの資料が今回の台湾別院跡捜索に非常に役に立ちました。というよりこの資料がなかったら台湾別院跡の捜索は不可能だったかも知れません。
 出口三平さんが編纂した100頁あまりの資料ですが、昔の機関誌などから巡教の記事を抜き出したりして、とても濃密な資料です。日月潭参拝の際にも重宝しました。
 著作権の問題があるのでネットで公開できないのが残念です。せめて表紙だけでもお見せしましょう。

↑あべちゃんが秘蔵していた『台湾現地研修会資料』 表紙ボロボロ
 台湾別院があった大まかな場所は、この1990年の研修会のときにある程度把握されています。
 研修会の責任者だった川崎勝美さんが、別院の敷地の所有者だった方にお聞きして、概略図を書いて機関誌に掲載しています(『神の国』1990年12月号P11)。
 それをもとに、現在のその場所がどのような状態になっているのか、Googleアースを用いて調べてみました。
 それが下の画像です。
 赤と青の斜線を引いているエリアのどこかに台湾別院があったようです。(Googleマップ
 この衛星写真を見て私はハッとしました。開発されずにほとんどが空地になっています。
 特に右側の青い斜線のエリアには何も建物が建っていません。これはひょっとしたら……歌碑が残っているかも……!

 第二次事件のとき官憲によって倒されはしたでしょうけど、歌碑は巨大です。
 台湾別院の歌碑は昭和8年8月20日、王仁三郎臨席のもと、除幕式が行われ、「憧憬碑」と命名されました。
 その時の模様を記録した機関誌記事に高さ「八尺八寸八分」(2.7メートル)、幅「五尺二寸三分」(1.6メートル)、重量「二千二百貫」(8.25トン)と書いてあります。※2
 8トン以上もある巨大な岩を動かすのは大変です。建物を建てるとか開発するのであれば撤去もするでしょうけど、空地のままだとすると、ひょっとしたら歌碑は地面に寝転がったまま、放置してあるかも知れません。
 左側の赤い斜線のエリアも、何やら巨大な建物が建っているだけで、空地が目立ちます。
 しかし東西に400メートル、南北に150メートルもある広いエリアです。やみくもに歩き回っても時間を浪費するだけで見つかるかどうか…。別院が建っていた場所をもう少し特定せねばなりません。

 台湾に行く前に国立国会図書館に何度か足を運び、当時の台湾の地図を探してみました。
 すると右→の地図を見つけたのです。

 この地図は明治37年(1904)に作成した地図です。東西に走る道路は現在と同じですが、南北に走る道路は現在とは位置が異なります。
 一部道路が付け替えられて現在のようになったのでしょう。それを推測したのが←左の図です。(クリックすると拡大します)

 埴安の景さんが何年か前に台北市内の某所で撮影した昭和10年作製の絵地図の写真があります。
 その写真とこの明治37年の地図を比較してみたら、道路の形状がそっくりではありませんか!
 直線に走る道路があり、北(上)に道が分岐していて、その角に大本台湾別院が建っている・・・。
 地図の赤いエリアではなく、青いエリアに建っていたようです。
 この古い道路が今でもあるなら、別院の建っていた場所がかなり特定できるはず。
 そこでGoogleアースの衛星写真をじっくり眺めたら……それらしい道路の痕跡が見つかりました!
 緑色で示した部分がそうです。
 この緑色の部分より右側(東側)に、台湾別院が建っていたと考えられるのです。
 なんということでしょうか! まったく空地ではありませんか!
 これなら、もし歌碑が寝転がって放置されていたなら、簡単に探し出せそうです。

 しかしその後、国会図書館で昭和10年の地図を発見し、その地図にはすでに現在の道路が書き込まれてあり、古い道路は書いてありませんでした。
 明治37年の地図と同じ、古い道路形状の昭和10年の絵。
 それと同じ昭和10年の地図ではすでに現在と同じ新しい道路になっている……一体どう解釈すればいいのでしょうか?
 これはもう、現地に行って直接調べる以外にありません!

午前8:05 陽明山に向けて出発


 8時5分、一行9名は3台のタクシーに分乗して、ホテル前から陽明山に向けて出発しました。
 車は郊外に出て、やがて山の中へと入っていきます。台北の街が一望できていい景色です。

 坂を登ると、また賑やかな街並みが現われて来ました。
 正面に沙帽山(さぼうざん)とおぼしき山が見えます。
 この山は台湾別院跡を捜す手がかりの一つとなる重要な山です(後述)。


 するとタクシーは突然、道路の左側にあるレストランの中に入っていきました。
 目的地が運転手によく伝わってなくて、関係ないところに入ってしまったようです。
 もう少し先だよ、と運転手に説明して、再び3台のタクシーは走り出しました。
 目的地は陽明山の少し手前にある「福寿橋」という橋です。

 福寿橋の手前に、台湾別院の理事だった松田徳三宣伝使の自宅があって、そこを王仁三郎は「霊泉郷」(れいせんきょう)と名付けています。
 その「霊泉郷」と彫られた石碑が現存するということを、1990年に川崎勝美さんは現地で確認し、写真に収めています(右→の写真)。
 昭和6年1月21日に、王仁三郎は「霊泉郷」と書いた額面を松田さんに与えており※3、その額面をもとに造ったようで、筆跡は王仁三郎のものによく似ています。
 霊泉郷の場所自体はすでに他人の手に渡ってしまったようですが、石碑があることは17年前に確認されているので、まずそこに行って石碑を捜してから、台湾別院跡を捜し出そうという手順です。
 さて、17年後の今も残っているかどうか…!?
※1…『台湾現地研修会資料』P54
※2…台湾別院での校正箇所は第64巻下。この巻は当初第71巻として作られたが製本直後に発禁処分となった。校正の時に王仁三郎は第64巻と合冊して発行するよう指示を出した。『霊界物語資料篇』P312
※3…『台湾現地研修会資料』P53

(作成:2007/10/26)
プリンタ用画面
作成:2009/3/20 15:46:51   更新:2009/3/20 17:26:54   閲覧数:2104
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