王仁三郎ドット・ジェイピー
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三日目(21日、日曜日) - 5


午前10:05 竜と玉を発見!


 門のようなレンガの壁の上に、竜と、玉。
 これは日本風ではありませんが、といって中国風とも言えないでしょう。
 まして普通の庶民が、こんな竜の彫像を門の上に載せるとは思えません。
 造られてから、相当な年月が経っています。
 一体、誰が、何の目的で造ったのでしょうか??

 これは門の右側だと思われますが、しかし左側は辺りに見つかりません。壊されてしまったようです。
 そのとき、埴安さんが私を呼ぶ声がしました。
 急いでそちらへ行ってみます。

午前10:08 小川?を発見

 埴安さんが発見したものは、「小川」または「灌漑用水」です。
 これは1990年の研修会のとき、川崎勝美さんが、台湾別院の土地の元の所有者(当時88歳)から直接話を聞き、別院のあった場所をメモに書いてもらい、それを清書したものを発表しています(『神の国』1990年12月号P11)。それが右の図です。
 かなり大ざっぱな地図で、距離や、歌碑と別院の位置関係などはこの通りではないかも知れません。
 しかし別院の敷地内を小川だか灌漑用水だかが通っていたことは、土地の元所有者の証言ですから間違いないようです。


↑観星閣で撮った写真
 王仁三郎の台湾巡教のときの歌に、次の歌があります。(『台湾現地研修会資料』P51)

   垣の外流るる細き清川せいせんに島の婦人のきぬ洗ふ半日

 これは王仁三郎の台湾別院での居室(観星閣)にて詠んだ歌らしいです。つまり居室の垣の外を細い川が流れていたというのです。
 その川が別院捜しの目標物の一つだったんですが、埴安さんはそれを探し当てたわけです。

 数メートルの段差があり、上から見る限りでは、幅1メートルもない狭い側溝のようなかんじです。
 果してこの“川”で、ご婦人たちは洗濯をしていたのでしょうか? それとも他に別の“川”があるのでしょうか?

午前10:20 そしてついに、歌碑の台?を発見


 私たちは先ほどの竜門のさらに奥へと入ってみました。
 そこで樹木の茂る中をかき分けて入り、そしてそこに、巨大な石の塊のようなものを見つけたのです!

 一瞬「やった、歌碑を見つけた」と喜びましたが、憧憬歌碑は自然石で出来ています。
 しかし発見したこの塊は、自然石ではなく人工物です。
 歌碑の台の一部として使われた可能性もあります。
 ひょっとしたら歌碑がこの辺りに転がっているかも知れないと思い、草木をかき分けて探してみましたが、それらしきものはありませんでした。
 その代わりに、いろいろな建築物の残骸を見つけました。
 塀とか垣根とか、ですね。
 先ほどの歌碑の台?のようなものも、塀のような構造物だったのかも知れません。

午前10:36 断念

 埴安さんと岩さんは、見切りをつけて先に外に出て行きました。
 しかし私はまだあきらめずに周辺を捜しましたが、特に何も見つかりませんでした。

 何十年も年を経た門や塀の残骸が見つかったのですから、この辺りに何らかの建築物があったのは確かでしょう。
 しかし別院が建っていたのは、この場所ではないかも知れません。
 その思いを確定的にしたのは、山の稜線の見え方です。



 この場所から見た七星山(奥)と沙帽山(手前左)は左←の写真です。
 七星山の左肩の段差が特徴です(左の下の図)。それを目印に、上の別院や歌碑の写真と見比べると、どうも見ても場所はここではありません。
 上の写真のように見える場所は……おそらくここからもっと左に移動した場所です。
 つまり台湾銀行訓練所の敷地内、ということになります。
 第1候補地内ではなく、第2候補地の中です。
 一番最初に入って、みんなで記念撮影をしたあの場所の方が、上の写真と同じように稜線が見えたのです。

 私はこれ以上ここを捜索するのを断念しました。
 その場で、天に向かって天津祝詞を奏上し、道路に向かって歩き出しました。
 埴安さんたちはどこにいるのかなと電話をかけたら、急いで来てくれと言います。
 近所の人に聞き込みをしていた埴安さんは、新たな新事実をつかんだらしいのです。
 一体何が判ったのでしょうか?!

(作成:2007/10/27)
プリンタ用画面
作成:2009-3-20 16:07:35   閲覧数:1822
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