王仁三郎ドット・ジェイピー
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三日目(21日、日曜日) - 6


午前10:45 謎のユダヤ人

 埴安の景さんが近所の人から聞き出した話はこうです。

 今から30数年前、マンションの隣の台湾銀行が建っている辺りに日本家屋があり、そこにユダヤ人が住んでいた。
 そこには大きな石が置いてあった。
 ユダヤ人はその大きな石を誰かに売ってしまった。
 するとその後ユダヤ人は病気となり、どこかに引っ越してしまった。
 その後に台湾銀行が訓練所を建てた……。

 この「大きな石」というのは王仁三郎の歌碑だったのでしょうか!?
 このユダヤ人は何者なのでしょうか?
 なぜ日本家屋に住んでいたのでしょうか?
 その日本家屋とは大本教の建物だったのでしょうか?
 石を売った後、病気になったというのは単なる偶然なのでしょうか?
 ユダヤ人が引っ越した後、銀行がやって来たというのは、何を意味しているのでしょうか??

 謎は深まるばかりです。

↑近所の人から聞き込みをする埴安さん

↑来る途中で見たこの建物の辺りにユダヤ人の家があったらしい

第1候補地の調査結果

 第1候補地での調査をまとめてみます。
 下の図で、(7)のあたりから空地の中へ入って行きました。
 (6)の草原には特に何も見つかりませんでした。
 竜門を発見したのが(1)、塀や石垣の残骸を発見したのが(2)です。
 小川(灌漑用水?)を発見したのが(3)。ここは段差があり、向う側(北側)は数メートル低くなっています。そこに石垣に沿うように小川?がありました。
 (5)は畑として利用されていました。
 (4)は今は台湾銀行の訓練所ですが、30数年前には日本家屋があり、ユダヤ人が住んでいた場所です。
 緑の部分には道路があることを確認しました。点線は確認は出来ませんでしたが、多分延長していて北側の道路につながっていたと思われます。明治37年の地図に出て来た道路です。
 但し北の道路からはその古い道路は見えませんでした。道路がつながっていたと思われる部分は草藪に覆われていました。
 青い線より向う側が台湾銀行の敷地で、中には入れません。緑の道路は公道ではなく敷地内の私道になっています。
 山の稜線の見え方から、台湾別院の神殿と歌碑が建っていた場所は、赤い線より左側だと思われます。
 右側の部分も台湾別院の敷地だったかも知れませんが、神殿や歌碑が建っていた場所は右側ではありません。左側です。
 しかしそこは銀行の敷地の中。これ以上の捜索は不可能です。

 やれることはすべてやりました。
 ここを離れて、再び霊泉郷の方に行こうと思います。
 さっきは急いでいたのであまりじっくり石碑を観察できなかったのです。
 霊泉郷の石碑の横には何か文字が彫ってあり、その文字がセメントで埋められていました。
 何て彫ってあるのか調べに行くのです。
 

午前11:10 スタバで休憩


 セブンイレブンの交差点に戻って来ました。
 セブンの左隣にあるスターバックスコーヒーで休憩&作戦会議。
 アイスカフェ110元(約400円)。残高1,287元。

 歌碑のことをあらためて思い起こします。
 ユダヤ人が売ったという大きな石。仮にその石が王仁三郎の歌碑ではなかったとしても、再利用の価値があるのなら、歌碑は第二次事件のときにすでに転売されてしまったかも知れません。
 あるいは他の歌碑のように、破砕され、廃棄されてしまったかも知れません。

 王仁三郎は大正10年(1921)1月、綾部の熊野神社に歌碑を建ててから、昭和6年(1931)から昭和10年(1935)の間に日本各地に40数基の歌碑を建てています。
 それらは全て第二次事件の際に引き倒され、ほとんどは破砕されてしまいました。
 戦後少しずつ再建されていますが、当時と同じ碑石を用いているのは数えるほどしかありません。
 『大本教学』第7号(昭和4?年)P83で木庭次守(こば つぎもり)さんは歌碑の再建について次のように書いています。

「聖師の歌碑は、第二次大本事件にほとんど破砕されたが、大分県の神声歌碑はそのまま土中に埋められたものが再建された。喜界島の神声歌碑、九州別院歌碑、新居浜歌碑、南海分院歌碑は元の碑に字だけを彫り直して建てることが出来たもの。五六七歌碑のように字を削られたそのまま三基が建てられたもの元神畔民,稜魃晴糧蠅筝掬膾別院の風景歌碑のように、三ツ四ツに割られたものを継いで建てたもの、新たにつくり直して再建させて頂いたものもある。」

 台湾では本土ほど大本弾圧は強くなかったのではないか、もしそうなら歌碑は引き倒されている程度で、そこらへんに放置されているのではないか、と考えていましたが、よくよく調べてみるとそうでもないようです。むしろ台湾の方が弾圧が強かったかも知れません。

 『大本七十年史』によると、第一次事件に関しては、本土での大本教摘発(大正10年2月12日)より半年も前の大正9年7月に、台湾総督府は島内での大本宣教の禁止を命じています。さらに内務省に対して「何故大本教を禁止しないのか」と抗議を行ったとのことです。(台湾の動き - オニド
 この台湾における大本弾圧が波及して第一次事件へと発展して行ったとも言えるでしょう。
 そういう経緯があるのですから、第二次事件での弾圧は本土より手ぬるかったということはないでしょう。

 歌碑はもうないのか……深く溜息をついたその時です。
 「あ! あべちゃんだ!」
 見ると交差点の角で街の地図を見ているあべちゃんが!
喜界島・神声歌碑
熊本県・九州別院歌碑
島根別院・憧憬歌碑

午前11:30 あべちゃん、発見?

 8時半に霊泉郷付近であべちゃんが行方不明となってから3時間経ってます。
 のんびりと道草しながらここまで歩いて来たのでしょう。
 私たちはスタバから飛び出して「あべちゃーん!」と大声で叫びました。
 しかし車の往来が激しく、道路の反対側にいるあべちゃんには聞こえないようです。
 「あべちゃーん!あべちゃーん!」と叫び続けました。──まだ聞こえないのか。鈍感な奴め。
 あべちゃんがようやく振り向きました……? いや、あべちゃんではありませんでした。全くの別人です。後ろ姿はそっくりなんですが……。
 拍子抜けした私たちはまた何事もなかったかのようにスタバに戻りコーヒーをすすりました。
 …自分の携帯電話は使えなくても、私たちの携帯の番号は知っているのですから、何か用があったら公衆電話からかけて来るでしょう。
 さて、気を取り直して霊泉郷に向けて再出発です!

(作成:2007/10/27)
プリンタ用画面
作成:2009/3/20 16:09:43   更新:2009/3/20 16:12:20   閲覧数:2157
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