王仁三郎ドット・ジェイピー
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耀わん展・難波忠元氏に話を伺う

 耀わんとは、出口王仁三郎聖師がつくった楽焼き茶碗のことです。
 茶碗といえば“わび・さび”が常識ですが、その常識を打ち破るカラフルな色合いの耀わんは、見れば誰でも驚くと思います。
 現代アートならいくらでもありそうですが、昭和20年(1945)当時のカーキ色一色に染まった日本で、王仁三郎聖師は天国の雛形となる耀わんを焼き続けていたのです。

 その王仁三郎聖師の耀わん展を今まで36回も開催して来られた難波忠元(なんば ただもと)さんにお話を伺いました。

 時は平成19年(2007)4月15日。兵庫県西宮市内で、私・飯塚弘明と、大阪市に住む登美野とみの晴月せいげつさんとの二人で、お話を伺って来ました。
【注意】
 「耀わん」を「耀碗」と書くのは厳密にいうと間違いで、正しくは「王+完」のの字を用いて「耀」と書きます。
 しかしの字がシフトJISコードにはもちろん、ユニコードにも存在しませんので、画像を用いて表現するしかありません。
 ですが本文中ではわずわらしいので「耀わん」と書かせていただきますのでご了承下さい。
 (耀わんの写真はこちらをご覧下さい →耀わんの写真

佐々木松楽さんのお役

 難波忠元さんは今年94歳。
 昭和63年(1988)に宝塚で開催したのを皮切りに、合計36回も耀わん展を開いて来られました。
 大阪・生国魂(いくくにたま)神社、名古屋・熱田神宮、西宮・廣田神社など、主に関西圏を中心に、神縁のある土地で開催。毎回、遠方から駆けつけてくれる熱心なファンもおられるとのことです。

 王仁三郎聖師が耀わんをつくられたのは、昇天されるわずか2〜3年前のことです。
 昭和20年の正月から翌21年の3月まで36回、窯をたき、たった1年3ヶ月の間に7200個(注)もの耀わんをつくられました。
 そのお手伝いをされたのが、楽焼の名士である佐々木松楽(しょうらく)さんです。
(注)耀わんの数は3000個とか3600個とかいう説がありますが、実際にはもっとたくさんつくったようです。機関誌『神の国』昭和26年8月号の佐々木松楽さんへのインタビュー記事の中で、5000〜6000個はゆうに超えると松楽さんが答えておられます。
 難波さん自身も松楽さんから楽焼を教わり、たくさん茶碗をつくったそうです。
 松楽さんは昭和49年(1974)に帰幽されましたが、難波さんは昭和29年から48年まで約20年間、松楽さんの窯へ何百回も通い、その間、王仁三郎聖師の耀わんづくりの話も断片的に聞いたそうです。
 あまり言われていませんが、耀わんづくりにおける松楽さんの功労はたいへん大きかったようです。
「松楽さんは聖師様を生神さまと信じている。聖師様と一体になっており、隙間がない。松楽さんがいなかったら耀わんはつくれない。そういうお役があったのです」
と難波さんは語りました。

 ピンクやオレンジやグリーンなど、今までの楽焼きにはない斬新な色使いの耀わんは、聖師の昇天(昭和23年)後に美術評論家の加藤義一郎さんによって高く評価され、その後各地で耀わんの鑑賞会が開かれるようになりました。
 難波さんが開いて来られた耀わん展も、そういう流れのものだと思っていたのですが……
 ぜんぜん違いました。見た目は同じように見えるかも知れませんが、その「意」(こころ)は全く違っていたのです。

耀わんは、茶碗ではない

 王仁三郎聖師は耀わんを「魂を込めて焼いている」と言われたそうです。
 ですが名匠ならば誰でも「魂を込めて」焼いているわけで、何も特別なことではありません。
 しかしミロクの大神の下生である王仁三郎聖師が魂を込めたということは……

「耀わんは霊界物語を具体化したものです」
 そうおっしゃる難波さんの言葉に私はハッとしました。
 霊界物語は「瑞月の肉身であり霊魂であり表現である」(第40巻緒言)と聖師御自身が言っています。ならば聖師が魂を込めて焼いた耀わんも「瑞月の肉身であり霊魂であり表現である」と言えるのではないでしょうか。
 霊界物語がミロクの大神、神素盞嗚大神を文章として表現したものだとするなら、耀わんとは、それを目に見える形で表現したものだと言うのです。

 そういう話は今まで聞いたことがありませんでした。
 カルチャー・ショックを受けた私に、難波さんは続けて言いました。
「耀わんは、茶碗の形をした玉(ぎょく)です」
 そうか! ……茶碗じゃないんだ、「玉」なんだ……。

 王仁三郎は救世主だと口では言いながら、その救世主がつくった耀わんを美術品としてしか見ていなかった自分がとても恥ずかしくなりました。
 今まで耀わんをカラフルな茶碗、とても優れた美術品という目でしか見ていなかったのです。
 救世主が魂を込めて耀わんを焼いたことの意味をまったく考えていませんでした。
 王仁三郎聖師は決して暇つぶしに茶碗を焼いたわけではないし、自分の天才ぶりを他人に見せつけるために焼いたわけでもないでしょう。
 スの顕現である王仁三郎聖師が魂を込めて焼いた茶碗……それ自体もまたスの顕現であると言えるのでは……!?

 そう考えるととても身震いがして来ました。
 宇宙剖判以来、56億7千万年目にして降臨したス神は、今後二度と地上現界に顕われることはありません。
 そのス神が魂を込めてつくった神器──
「聖師様の神格が分かったら、耀わんがいかに尊いものか分かります」
 亀岡・天恩郷に行けば王仁三郎聖師の作品が「展示」してあります(作品展示室)。
 しかし難波さんが開いて来られた耀わん展は、美術品の展示会でも鑑賞会でもなく、ある意味、一種の御神事なのかも知れないと感じました。

神島で聖師のお尻を押す

 昭和6年(1931)入信の難波さんは、昭和神聖会活動などで度々王仁三郎聖師に面会していますが、一番の思い出は神島で聖師のお尻を押したことだそうです。

 昭和10年(1935)10月6日、神島開き20年記念の参拝の際のことです(これが聖師の最後の神島参拝になりました)。

 とても急な坂があり、そこの手前にさしかかると、坂の上で自伝映画の撮影のため映写機を回していた映写班が「そこにいる人! 聖師様の後ろを押してあげて下さい!」と大声で叫んだそうです。
 難波さんは回りを見るとどうしたわけか自分一人しかいない。そこで難波さんが聖師様のお尻を押してさしあげて、急坂をえっちらほっちらと登って行ったそうです。

 頂上まで登り終えるとまた急いで坂道を下りて行き、今度は二代様のお尻も押させていただいたとのことです。

 王仁三郎聖師のお尻の感触はどうだったのでしょうか?
「とても柔らかかったです。あたたかみがまだ手に残っているようなかんじ……」
 難波さんはそのときの手の感触を思い出しているようでした。

 王仁三郎聖師の背丈は5尺3寸=約160センチ。当時の成年男子としてはごく平均的な高さですが、こんもり盛り上がった髪の毛を入れると5尺6寸7分=約170センチあったようです。
 小柄で細身の難波さんに対して、聖師は背が高くてふくよかな体格。
 お尻を押して行く光景はまるでセメント樽にカマキリがたかっているようなかんじだったと言う難波さんの言葉に、一同は思わず吹き出しました。

聖師が残された地上で最高の物

 昭和25年(1950)12月31日、天恩郷の事務所が全焼し、霊界物語の聖師御校正本の一部や、その他たくさんの資料が焼失してしまいました。
 このとき耀わんも多数焼けてしまったようです。

 難波さんは翌26年正月に天恩郷に再び修業に行きましたが、そこでスライドで耀わんを見せられました。
 このとき初めて耀わんというものを見たそうです。ここで難波さんは耀わんに関心を持ちました。

「聖師が残された地上で最高の物。霊界物語を具体化したもの」
 そう思ったから、耀わんを是非いただきたいと思ったそうです。
 早速、月宮宝座へ行き、耀わんをいただきたいと聖師にお願いをしました。
 すると……翌年、一個目の耀わんをいただけたそうです。

 ここから難波さんの耀わん展への道が始まったようです。

電報で大本に引っ張られる

 難波さんは大正2年(1913)岡山県和気郡塩田村(現在は和気町)の生まれ。家は農家で、天台宗の檀家だったそうです。

 岡山で表具師の見習いをしていた難波さんの許へある日、大阪にいるお兄さんから急用があるから来いと電報が来ました。
 理由も分からず主人に暇をもらって急いで大阪へ駆けつけると、なんと三千世界の立替え立直しの神業に参加しようとのこと。難波さんは大本の話を聞いたのはこのときが初めてだったそうです。

 言われた通りに亀岡に行き、講話(修業)に出席。
 最初は眠くて眠くて仕方がなかったそうですが、3日目から、悲しくもないのに涙が溢れ出て来たそうです。
 これは更生祭(昭和6年8月25日)の直前、8月15日から1週間の修業のことです。
 祭りのため、朝鮮や台湾、樺太などから宣伝使服姿の宣伝使がたくさんやって来ており、神苑はとても賑やかだったそうです。
 この時代は王仁三郎聖師の神業が一番活発だった時代です。

 昭和5年5月20日、王仁三郎聖師は岡山県和気郡熊山町(現在は赤磐市)にある熊山遺跡に参拝され、ここは素盞嗚尊の御陵に間違いないと断言。その後その近くに中国別院を建設することになりました。
 難波さんはその建設作業に奉仕。
 まだ機械のない時代ですから、つるはしとスコップでの建設作業です。
 青春時代の思い出です……と、感慨深く語っていました。

のんびりだった軍隊生活

 戦時中は満州の部隊にいたそうです。戦争末期に南方へ移動することになりましたが、乗るはずだった船団が全滅。朝鮮・済州島で陣地構築することになり、そこで終戦を迎えたそうです。戦後しばらく経った昭和24年に帰国しました。

 満州から済州島へ移動した後、ソ連軍が満州に侵入し、たくさんの人がシベリアに拘留されることになりました。
 難波さんは結局、戦闘地域に行くことはなく、戦闘で銃を撃つことはなかったそうです。
「戦争は嫌いだから……」
と言う難波さん。神さまのお守りがあったのでしょう。

「青春時代で、足かけ5年の軍隊生活が一番のんびりでした」
 この難波さんの発言に一同驚きました。
 軍隊といえばキツくて厳しいバラモン教社会だというのが世間の常識ですが…
「軍隊というところは命令通りのことしかできません。それ以外のことをすると叱られる。休めと言われたら休むのが仕事です」
 戦闘がなければ軍隊はやることがないので、戦闘地域に配属されなかった難波さんは比較的のんびりした日々を過ごすことができたようです。

「仕事のないときは野原で寝転んで空を見てました」

「満州の空はとても、とてもきれいでした」

「…お国のため、ご奉公ということで満州に来て、こうしてのんびりと空を見ている。これは神さまから与えられた時期だと思いました」

「ともかく見渡す限りきれいで、大地そのものが光っている。…まるで宝界の中に包まれているようなかんじでした」
 宝界とは七宝の世界、極楽浄土の世界です。
 その光り輝く宝界の世界を、耀わん展で感じ取れればいいなと、ふと思いました。

青空の下で…

 耀わん展は神縁の地を選んで開催しているそうです。。
 関東では、さいたま市の氷川神社(武蔵国一宮)で開催したいそうですが、若い人たちに任せるとのこと。

 そういえば氷川神社と言えば私もよく参拝しました。
「神さまのご機嫌はどうでした?」
と難波さんに問われ、思わず私は考え込みました。神さまのご機嫌・・・?

「参拝と観光とは違います。観光だったらお宮の外観を見たらそれで終わり。

 お参りというのは神さまにご面会に行くこと。鳥居をくぐり、挨拶をすれば、必ず受け答えがあります」
 そう、私は観光に行っていたのです。神さまの家だけ見て、そこの主には会っていなかったのです。鋭い指摘を受け、深く反省です。

「これからは家を出る前に、これから参拝に行きますのでよろしくお願いしますと挨拶をしてから行きなさい。そうすれば鳥居まで、お出迎えに来てもらえます」

「大本の信者となれば神界でも特別な扱いになります。みろくの大神のお弟子となるのです。だから神様の御名を辱めないように注意しなさい」

「霊界物語で、高姫さんは改心させようとしても改心しない。改心したり慢心したり、結局最後は改心しない」

「それならこちらは、それ以上に聖師様を表に出させていただくしかない。みろくの大神のみ光を表に出させていただくのです」

「耀わん一体あったらそれで十分。聖師様と一緒だから、おそれるものは何もなし」
 大本本部が推戴する出口聖子・四代教主(当時)に誓約書を出すことを拒否したため、信徒籍を剥奪された難波さんの歩みが深く籠められた言葉です。

「五六七神政成就のためには、捨て石となっても御用に使っていただかなくてはならない。だから元気が出て来るのです」
「聖師様の全盛期には、こういう御用はできません。こういう勉強はできません」
「聖師様を地に落として踏みつけて、汚している時代だからこそ、聖師様を表に出させていただく御用ができるのです。そういう大きな課題を仰せ付けられるのです」


 最後に難波さんは言いました。
「天井はない方がいい。青空の下でやりなさい──」
と。


 難波さんにはお話しをまとめてウェブサイトに載せたいということは話してありましたが、『王仁の庭』の活動についてはほとんど話していませんでした。
 しかし『王仁の庭』のことをまるで見透かしたかのような説示を多数いただき、神霊のお導きというものを深く感じました。

 難波さん、長い時間を費やしてお話しを聞かせて下さったばかりでなく、耀わんお取り次ぎをしていただいきまして、誠にありがとうございました。
 また、難波さんにアポをとっていただいたばかりでなく、場所の準備までしていただいた方に、この場を借りて御礼申し上げます。

 最後に登美野さん、またどこかに話を聞きに行きましょう!

(作成:2007/5/15)
プリンタ用画面
作成:2009-3-23 15:28:16   更新:2009-3-26 20:01:04   閲覧数:4882
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